法律を勉強していると理解しているようで理解してない部分ってありますよね。強制処分と任意捜査の限界もその一つです。
そこで、今回は強制処分と任意捜査の限界について、しっかり理解をすることを目的に検討してみたいと思います。わかりやすく書くために多少語弊があるかもしれませんが、ご容赦頂ければ幸いです。
捜査とは
そもそも、捜査とは何でしょうか。ここが出発点であり、最重要なポイントです。捜査とは、捜査機関が主体となって行う活動のうち、公訴提起あるいは公訴維持のために、証拠を取得収集し、被疑者を身体拘束する活動です。
ここで、重要なのは、「公訴提起あるいは公訴維持」を目的とする点です。ご存知の職務質問及び所持品検査は、行政警察活動であり、捜査ではありません。
これは多くの人が理解をしていますが、米子銀行強盗事件(最判昭和53年6月20日刑集32・4・670)がなぜ職務質問及び所持品検査であるのか即答できない人は多いです。
あくまでも一つの説明ですが、そもそも、捜査が「公訴提起あるいは公訴維持」を目的とすると、捜査活動とは、特定の犯罪が発生していること(あるいは将来発生すること)が必要です。例えば、変死体が発見されてその遺留品を保存する行為などは、公訴提起のための証拠収集活動になるため、被疑者が不明な場合も、捜査と言えます。
一方、米子銀行強盗事件も、銀行強盗という特定の犯罪が発生したことは明らかです。ですが、米子銀行強盗事件では、被疑者不明で、容姿が似ている人物が犯人であるかどうか、言い換えると、事件と関係があるかどうかを判断するために、質問及び持ち物の検査をしているという事案です。
そのため、ここでの質問は、公訴提起あるいは公訴維持を目的とするものではなくあくまでも既に発生している事件の被疑者どうかを判断している段階にすぎません。
したがって、捜査ではなく、行政警察活動としての職務質問になります。
強制処分法定主義と令状主義
強制処分法定主義と令状主義については、当然聞いたことがあると思います。ですが、これらを峻別せずに同列に話している人がいます。個人的には、この二つの概念は分けた方が良いと思います。
まず、刑訴法197条1項を見てみます。「捜査については、その目的を達すため必要な取調べをすることができる。但し、強制の処分は、この法律に特別の定めのある場合でなければ、これをすることはできない」と規定しています。
刑訴法で、最もよく読まれる条文ですよね。釈迦に説法になりますが、本文は任意捜査の原則、ただし書きは、強制処分法定主義を規定しています。
令状主義は、憲法35条を参照して下さい。
この任意捜査の原則、強制処分法定主義、令状主義の関係性を考えることが非常に大切です。
そもそも、警察及び検察官は、犯罪が発生した場合に、証拠収集をしなくてはいけません。この活動の種類態様には、色々な活動が想定されます。個人の権利利益を侵害する活動もあればそうでない活動も当然あります。
このような前提がある場合に、立法論として、警察及び検察ができる捜査手法を限定列挙するのは無理です。そこで、原則、個人の権利利益を侵害しない。あるいはその程度が低い活動については、捜査活動を現場で行っている警察及び検察が自らの判断でやっても良いことにする。これが任意捜査の原則です。
もっとも、「類型的に」個人の重要な権利を強度に侵害するものが存在します。ここでは、あくまでも「類型的に」です。現場で被処分者が同意したかどうかを問わず、類型的に重要な権利を強度に侵害する活動があります。
このような活動を警察及び検察が自由に判断してやってしまうのは好ましくありません。そこで、前提として、警察及び検察が自由に判断を阻止するために、あらかじめ国会が定める法律がなければ、その活動自体をすることができないとしました。
これが強制処分法定主義です。
具体的にいうと、検証、捜索・差押え等です。
その上で、令状主義とは、強制処分法定主義から法定された強制の処分があることを前提として、裁判所が当該処分を行える状況かどうかを判断することを定めた概念です。
つまり、本来捜査できるかどうかの判断主体は、現場の警察あるいは検察ですが、令状主義は、その判断主体を裁判所に転換させる概念です。
以上をまとめると、強制処分法定主義とは、そもそも当該捜査手法をとることが可能か否かという概念で、令状主義は、捜査の可否を判断する主体を裁判所へ転換させるものということになります。
この理解は、司法試験各種資格試験の論述に響いてきます。
強制処分該当性と任意捜査の限界
強制処分該当性の基準
強制の処分とは、「個人の意思を制圧し、身体、住居、財産等に制約を加え強制的に捜査目的を実現する行為など、特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段を意味する」
という基準については、知っていると思います。この基準がどのようなことを意味しているのかについては、色々な見解があります。
ですが、ここで有益なのは、なぜこの基準ができたのかということです。この基準を判示した最判昭和51年3月16日刑集30・2・187当時、強制処分の定義については、学説が群雄割拠している状態でした。
このような学説で一つ目の争点は、有形力の行使を伴う場合をすべて強制処分として扱っても良いのかという点です。有形力の行使といっても幅広いものがあります。例えば、被処分者の顔面を殴打するものから、逃げようとする被処分者の腕をつかんで制止するものまであります。
説得あるいは制止させるために、腕を掴む行為を直ちに強制の処分として、法律の規定がないあるいは、令状がないと言うような形で、違法とするのは、一般的な感覚にそぐわないと言えます。
そのため、被処分者の意思に反するではなく、制圧されたような状況下であることが、強制の処分として必要であると判例は示したと考えられます(もっとも、これは一つの説明の仕方にすぎません。そもそも「個人の意思の制圧」は意味のない要件との見解もあります)。
また、「身体、住居、財産等」という形で列挙していますが、これはどのような意味でしょうか。この点については、重要な権利という形で、置き換える人もいますが、それはどうして置き換えてよいのでしょうか。
この点については、そもそも、判例が出された当時、強制の処分について定説というものは存在しませんでした。そのような状況の中で、刑訴法上強制の処分として規定されているものがあります。それは、逮捕、捜索、差押さえ等です。
逮捕の侵害利益は、身体の自由です。捜索は、住居の平穏です。差押えは財産権です。
つまり、現行法上強制の処分として規定される権利利益と同程度の権利利益を侵害するものが強制の処分の内在的要素として必要だと判例は考えたと言えます。
その結果、「身体、住居、財産等」という表現を使い、重要な権利と置き換えて良いということが言われています。
任意捜査の限界
では、強制の処分に該当しない場合に、任意捜査の限界について検討することになりますが、これはどのように検討するのでしょうか。
「必要性、緊急性、相当性についてそれぞれ適当に当てはめておけば点がくる」とか言う人がいますが、それは間違えだと思います。
そもそも、必要性、緊急性、相当性、は並列的なものではありません。「天秤でしょ。天秤!」という人もいますが、その場合、何を乗せますか。
そもそも、緊急性という要件を持ち出していますが、緊急性は必要性を補完する要素に過ぎず、常になくてはならないものではありません。現に最判平成20年4月15日刑集62・5・1398では緊急性が検討されていませんよね。是非確認して下さい。
つまり、緊急性というのは必要性を補完し高める要素にすぎません。そのため、天秤の考え方でいうならば、必要性(+緊急性)VS権利侵害の内容程度=全体的に相当な限度かどうかということになります。
事例にもよりますが、最判平成20年4月15日のようなケースで緊急性を無理やり出してきて、必要性と緊急性と同じレベルで検討しているのは方向性としてよろしくありません。
思考判断枠
以上うだうだお話してきましたが、まとめます。学部やローススクールで、二段階で検討をするべきとの話は聞いたことがあると思います。つまり、強制の処分該当性、任意捜査の限界という流れです。ですが、正確にはここは三段階で審査します。さらに、ここでの三段階は、二つのパターンに分けることができます。
一つ目は、強制処分に該当性しないパターンです。
第1段階>
捜査該当性
↓→捜査に当たらない場合は、職務質問・所持品検査へ
第2段階>
強制の処分該当性
↓否定
第3段階>
任意捜査の限界
二つ目は、強制の処分に該当するケースです
第1段階>
捜査該当性
↓ 当たる
第2段階>
強制の処分該当性
↓肯定
第3段階その1>
法定の処分ではない場合
→強制処分法定主義違反
第3段階その2>
法定の処分である
→検証等と認定できる場合には、令状主義違反
となります。
特に、強制の処分に該当する場合、なぜ違法なのか、強制処分法定主義違反か令状主義違反かは忘れる人が多いので、絶対に忘れない方が得策です。